今回の旅③ 石巻、南三陸を訪れて思ったこと。
ここまで、石巻市大川小学校、門脇、南浜地区、そして南三陸町ホテル観洋の語り部に参加させてもらい、本当は詳しく記録することが大切だと思ったのですが、やめました。
もちろんこの記事や、私の発信程度で、「行かなくてもいいや」と思う人はそれほどいないと思うのですが
できたら、1人でも多くの人が、これらの場所を訪れて、「語り部」として話してくれる方たちの声を聴いてほしいと思ったからです。
辛い、悲しい経験をし、今も苦しんでいることもある人たちが、「語り」続けてくれているのは、その経験を、もう2度とさせたくない、そして教訓にしてほしい、という強い願いがあるからだと思います。
大川小学校、門脇小学校、そして志津川小学校、3箇所の小学校で思ったことは
①大川小学校→地震の避難訓練はしていたが津波の避難訓練や経路などがなかった。当時学校にいた11名の教師は、「山に逃げる」と言った1名の教師の言葉を遮り、全員を川の方向へ避難させようとし、川を遡上した津波によって川へ向かった74名の児童と10名の教師が死亡。
山へ逃げようと言った1名の教師は山へ逃げ無事、まずは自分が山へ向かい、その後大丈夫であれば全員を山へ誘導するつもりだったとのこと。生き残った4名の生徒は、3月11日の2日前の地震が起きた時に祖父母に「津波がきたら山に逃げろよ」と言われていた。「先生山に逃げよう!」と泣きながら叫んだそう。
生き残ることができた教師は、それ以降「話す場」を石巻市に奪われ、心の病になったとのことで話すことができない状態にあるとのこと。生き残ることができた生徒も、転校先でいじめに遭ったりして語り部の三條さんも今も近くで暮らしているが彼をみたことがない、、、と声を落としていた。
②門脇小学校→震災前から避難場所を学校裏手の山側へ向かうことになっていた。避難訓練でも何度もそこへ向かう訓練を日頃からしていたそう。震災当時学校にいた生徒と教師275名全員が無事
だが、保護者が迎えにきたり、風邪などで学校を休んでいた子ども数名が犠牲となったとのこと。
③南三陸町志津川小学校→震災前の避難場所は、高台だったが、小学校屋上への避難に変更しようとしていた、が、1960年チリ沖地震を経験した1人の女性教諭が頑なに「建物の屋上ではダメだ」と反対。
校長の判断で、避難場所は変更していたが、震災と津波警報の当日、急遽以前の避難場所の高台へ避難することにし、全員が無事だった。
この3箇所の小学校を訪れて、日頃からの「避難訓練」「避難場所」「避難経路」、「教師など生徒や指示を出す者の判断」が、どれほど重要か、よく理解できました。
そしてもしもその避難訓練などに「経験者」や、その安全性に「違を唱える人」がいたら、その人たちがなぜ「これじゃだめだ」と言うのかを「よく聞き」もう一度よく考えることも必要だと思います。
ホテル観洋の伊藤さんが、もう一つ訪れた、志津川小学校の更に上にある、南三陸町が地域の避難場所としていた「戸倉中学校」で話してくれました。
戸倉中学校です。地域住民の方も、車で、この中学校のグラウンドに避難していたそうです。
校舎は新しくなったそうですが、今も地震発生時刻の時計をそのままにしているそうです。
1階の右側にある白い表示が津波到達の場所です。
避難されていた方は、この手前のグラウンドにいたそうです。
この中学校の生徒は、向かい側の山の上に逃げて無事だったそうですが、1人野球部の1年生の男子生徒が転倒し逃げられなくなり、その生徒と、彼を助けに戻った先生が亡くなったのだそうです。
伊藤さんが声を大きくして言いました。
「行政が安全だ、避難の場所だ、という場所が必ずしも安全な場所ではないんです。普段からしっかり自分でより安全な場所を見ておくこと。」
石巻や南三陸、被災地を訪れ、語ってくれた方たちは「もう2度とこんなことが起きないために」どうしたらいいか?
を、声を大きくして私たちに語り継いでくれています。
「行政」や「企業」が、安全だ、大丈夫だ、と言い続け、それに対し「本当か?」「そんなことないのでは?」「やめてほしい」「こういうものを失うのでは?」と声を出し続けていることや、人たちが、皆さんの周りにいませんか?
例えば私の周りでは、寿都町の「核のゴミ」の最終処分場
その受け入れに反対の声をあげている町民や道民、多くの人たちがいます。
風力発電の立地のために、私の近隣の山々に建設をしようとしている企業や電力会社に反対している住民や市民運動もあります。
自然破壊や健康への被害を懸念して声をあげています。
遺伝子組換え食品の表示は規制が極端に厳しくなりました。
これは消費者のためではなく、遺伝子組換え食品などを売る企業のため?と思えます。
これまでたくさんの「市民」があげてきた声、原発や環境汚染、種のこと、農業や漁業の生産現場、消費税やインボイスのあり方、いくつも、いくつも。(ここでは書ききれないし、また書きます)
以前三條さんが暮らしていた場所「長面」地区です。津波で、自宅にいた息子さんをこの場所で亡くされました。
震災から10年経過して、高さ8mの防潮堤が建ちました。後ろに見える建物は、養殖牡蠣の殻向き小屋だそうです。
おかしいですね。防潮堤の外側にあるのです。
そして養殖事業などをされている人たちが逃げ、津波が襲ってきたら、このフェンスにしがみつけというのだそうです。
この場所は、かつては、住宅があり、豊かな海の幸、山の幸、地域のお祭りも盛んで毎年楽しみにしていたこと、鍵もかけなくてもいいくらい地域住民とつながって暮らしていたのだそうです。それがいかに豊かで、幸福なことだったか、と涙ぐみながら話してくれました。
今、この防潮堤の周りに残っている住居は1軒もありません。誰も住んでいません。
牡蠣の殻剥き工場だけがありました。
この防潮堤のフェンスの真ん中に少し見える白い補正の跡は、2016年の地震でひび割れした部分なのだそうです。
そのくらいですぐにひび割れてしまうような防潮堤にお金をかけて建設し、それに対して「反対!」という声を咎める声の方が大きかったように思います。
涙ぐみながら話してくれた「豊かだったこと」や「幸福だったこと」を失わないために、こういった災害はまた起きてしまうけれども、どうやって守っていくことができるのか?
もっともっと深く考えていきたいし、この「語り部」の方たちが話してくれること、伝えてくれることをしっかり受け止めなければと思いました。